【Act90-マスク・オフ・シンク。】
「うそ、……嘘だと仰って!!」
ナタリアの悲痛な声が響くのを聞きながら、俺は呆然と立ち尽くしていた。
悪い冗談だって笑えたらよかった。
けれど、他の誰でもないルークの言葉だからこそ、どれほど否定したくても分かってしまう。
それが事実だと。
『……不味かったら承知しねぇぞ』
結んだばかりの約束が、滲んでほどけていく。
理解してなお認めがたい現実に息が詰まった。
やっぱり俺も一緒に残っていたら。
そもそも、俺だけが残ればよかったんじゃないのか。
今更どうしようもない後悔が浮かびかけた頭に、
まだ色褪せぬ記憶の中、真っ直ぐに伸びたその背中から放たれた言葉がよみがえる。
『 行け、 』
「っ、」
まるで思い切りよく蹴り飛ばされたみたいに、
喉に詰まっていた重たい空気が、体の外へ抜けた気がしたとき、
――俺達の足下に、突如として大きな譜陣が浮かび上がった。
「いけません、罠です!!」
大佐の鋭い声。
意識が急速に引き戻される。
「ナタリア! 逃げよう!」
「私、……私……っ」
座り込んでいるナタリアをルークが促すけれど、まだ茫然としたままの彼女は、動けない。
「ナ、ナタリアっ、譜陣から出ないと!」
俺も隣にしゃがみ込み、ナタリアの肩に手を添えて軽く揺さぶるが、
深緑色の瞳はぼんやりと遠くを眺めている。
その間にも周囲に溢れる音素はどんどん増してきていた。
これがどういう効果の譜陣なのか俺には分からないが、
体中の何もかもが、とにかく逃げろと訴えている。
しかし、そんな本能からの警告も虚しく、
表情を険しくした大佐の「間に合わない」という声が耳に届いた。
俺はとっさにナタリアの頭を抱え込むようにして、ぎゅっと目を瞑る。
ああ神様ユリア様ジェイドさん、と祈りを捧げたその瞬間、
閉じた瞼の裏にまで届くほど強い光が、周囲を覆った。
驚いて目を開けると、そこには全身から光の渦を放つルークの姿。
そうして気づいたときには、足下に浮かんでいた譜陣は跡形もなく消滅していた。
何が起きたか分からずぽかんとしていたが、腕の中でナタリアが身じろいだ気配にはっとする。
必死だったとはいえ、断りもなくこんな体勢になった事をとにかく謝ろうと体を放した。
「ごめんナタリア! その、大丈夫?」
ナタリアがゆるゆると頷く。
言葉はなくとも反応が戻ったことに少しほっとした。
その横で、ティアさんがさっきの力は何だったのかと首を傾げると、
当のルークも戸惑ったように自分の両手を見つめた。
「分からない……ただ、アッシュのことを考えた瞬間、俺の中で何かが……」
アクゼリュスを消滅させたときに使った力に似ていたが、
その時とは違って自分で制御が出来たらしい。
罠で一網打尽という事態を逃れた安堵やら、ルークが突然使えるようになった力の不思議やらで、
場に満ちていた緊張感は少しずつ薄れかけていた。
「――第二超振動か。冗談じゃないね」
そんな緩みを、一息で断ち切るような声が辺りに響く。
イオンさまと“同じ”で“違う”、彼の声。
「シンク!」
アニスさんがその名を呼ぶと、
大階段の上に姿を現したシンクはゆるりと笑みを浮かべた。
「そんな化け物みたいな力を使われちゃ、
ユリアの加護を受けたヴァンにも荷が重くなる」
大人しくローレライの鍵を渡すか、ここで死ぬか。
与えられた選択肢を聞いて、ルークは「どっちもお断りだ」と強い眼差しでシンクを見上げる。
シンクは、預言は未来の選択肢のひとつだとするイオンさまの考えを一笑に付すと、
ヴァンのやり方ならばローレライもろとも第七音素は……預言は真の意味で消えると主張した。
「ボクは導師イオンが死ぬという預言で誕生した。
……一度は廃棄されたことも知ってるだろう」
捨てられたから預言を憎んでいるのかとルークが聞くと、彼はすっと表情を消した。
「違うよ。生まれたからさ!
お前みたいに代用品ですらない。ただ肉塊として生まれただけだ」
心底忌々しげな声で、ばかばかしい、と吐き捨てる。
「預言なんてものがなければ、こんな愚かしい生を受けずに済んだ。
ねぇ御同輩、そう思うだろう?」
緑の双眸が俺を映して嗤う。
それはこちらから同意が返らないことを分かった上で、揶揄っているだけのようだった。
「……シンク」
「生まれてきて、何も得るものがなかったっていうの?」
俺が言葉に詰まると、少し前に歩み出たアニスさんが、
様々な感情を押し殺した声でシンクに問いかける。
「ないよ。ボクは空っぽさ」
彼はあっさりとそれを肯定して、冷たい目で俺達を見下ろした。
ぐんと増した殺気に、やはり戦闘が避けられないことを悟ったルーク達が武器を取る。
ナタリアも反射的に立ち上がって弓を構えていた。
「試してみようよ。……アンタたちと、空っぽのボク。
世界がどっちを生かそうとしてるのかさぁ!!」
その言葉を合図に大階段の上から一息で飛び降りたシンクが、
鋭く地を蹴ってこちらに突っ込んでくる。
「うけてみろ! 昂龍礫破!」
放たれた衝撃波に、体が吹き飛ばされた。
空中でどうにか体勢を立て直し、やや後方に着地しながら周囲に視線を巡らせる。
その場で耐えたルークとガイはすぐ反撃に転じていて、
俺と同じあたりに着地したナタリアは改めて弓を引き絞り、アニスさんがシンクに向かっていく。
直撃する前に退避していたらしい大佐とティアさんの詠唱が、さらに後方から響いていた。
俺は、このまま中衛の位置に留まることにする。
身軽なシンクとの接近戦はどうしても素早い立ち回りを求められるから、
あまり前衛が増えると逆に動きにくくなってしまう。
相応の実力があれば、お互いに呼吸を合わせて問題なく戦えるだろうが、
俺では邪魔になる可能性のほうが高かった。
ならば味方識別のある譜術で援護しながら、
いざとなれば剣でも割り込めるこの距離にいるのが一番良いはずだ。
「狂乱せし地霊の宴よ、ロックブレイクっ!」
俺の詠唱に呼応して、シンクの足下に黄色い譜陣が広がる。
後方に跳びのいて突き上がった岩をかわし、
一端ルーク達からも距離を取ったシンクが、俺のほうを向いてにやりと笑う。
「へえ。今日はくだらない質問してこないんだ」
「……うん」
頷いて返す自分の声が、まるでこの場にそぐわない
子供みたいな響きを帯びたことに気づいたけれど、言い直すことはしなかった。
本当に戦うしかないのかと、
俺がアブソーブゲートで聞いたとき、シンクに返された言葉を思い出す。
『それじゃあ逆に聞くよ。
アンタはもしボクやヴァンが言ったら、あの死霊使いを裏切れるわけ?』
ジェイドさんは、
マルクト軍の大佐で、死霊使いで、バルフォア博士だ。
その呼び名の中のどれかが、あるいはすべてが、
どこかの誰かにとっては、どれだけ憎んでも足りないような仇であるかもしれない。
けれど誰かにとっての“悪い人”であるジェイドさんは、
俺にとっての“大好きな人”であるという事実が、決して変わらないように。
『誰だってよかったんだ。預言を……第七音素を消し去ってくれるならな!』
たとえ俺たちにとって
どれほど苦くて悲しい願いでも。
それが――君の“覚悟”であるのなら。
「オレはもう、何も言わない」
両手を胸の前に掲げる。何回も練習した動作。
フォンスロットを開き、音素を取り込み、術式を展開させる。
「ハッ、そうこなくちゃね!」
そう言ったシンクの声に、嘲りの色はなかった。
そして軽快な動きでルークとガイを振り切ると、一直線にこちらへ向かってくる。
アニスさんやナタリアがそれを止めようとするけれど、勢いは衰えない。
迫りくるシンクのプレッシャーに焦る心臓を宥めながら、俺は必死に術を組み上げた。
「……大地の咆哮、其は怒れる地竜の爪牙!」
これを彼とアッシュの前で盛大に失敗した件はまだ記憶に新しい。
からからに乾いた喉で譜を読み上げた俺に、シンクが口の端を上げた。
「またそれ? 出来もしない事やらなきゃいいのにさぁ!」
「さて、どうでしょうねえ」
笑みを含んだジェイドさんの声が耳に届く。
それに背を押されるようにして息を吸った。
そして、
「グランド……ダッシャー!!」
放つ。
「っ!?」
足下からせり上がった巨大な岩壁に、シンクが目を見開いた。
「でき、た……出来ましたジェイドさぁん!!」
実戦かつ詠唱ありで初めて成功したグランドダッシャーの感動で
泣きそうになりながらジェイドさんを振り返りかけた視界の端に、影が過ぎる。
「でもその喜びで隙だらけじゃ意味ないね。――空破爆炎弾!」
いつの間にかあの岩波の中をくぐり抜けていたシンクが、
すっかり油断していた俺に向かって攻撃を放った。
「ええ、まったくです。――アイシクルレイン!!」
シンクの技が当たる寸前、後方から響いた大佐の声。
「ぅわっ……!」
火と水の属性がぶつかった反動で巻き上がった強い風と蒸気に、とっさに顔の前に腕をやった。
その向こうから、チッ、と舌打ちが聞こえて、気配が遠ざかる。一旦距離を取ったらしい。
間もなく蒸気が晴れると、シンクの姿は前衛のルーク達と同じくらいの位置まで戻っていた。
「すみません大佐! 油断しました!!
あと助かりましたありがとうございます!」
戦況からは目をそらさないまま、俺は後ろのジェイドさんに向けて声を上げる。
決して怒られるのが怖いから振り返らないわけではない……ない。
そんな俺に、ジェイドさんが息をつく。
やれやれと肩をすくめる動作が見えた気がした。
「まぁそうですね。駄目出しは後ほどゆっくりということで」
「……ハイ」
「とりあえず、成功おめでとうございます」
「は、」
まだたった一回だけとか、戦闘中なのに喜びすぎた事とか、そのせいで隙だらけだった事とか、
後に回された駄目出しの内容はそれこそ山のようにあるだろう。
でも、今は。
「……はいっ!!」
“とりあえず”の祝福が、じわりと胸に染み渡る。
このまま畳みかけますよ、という大佐の言葉に強く頷いて、また詠唱を開始した。
たとえその言葉の先にある結末が
何を意味しているのかを
「ハハハハハハッ……ハ、……ぐ……っ。
……ヴァン……ローレライを……消、滅……」
――痛いほどに、知っていても。
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