かつて水の都と呼ばれた街に今流れるのは、流麗な水の調べではなく、悲鳴と怒号、そして深紅の血だ。
 この地に暮らしていた人々がいつか誇らしげに語った美しい街並みは炎にまかれ、そこかしこから黒煙が立ち上っている。

 例えここからどんな奇跡が起ころうと、もはや盤面がひっくり返ることはないと、
 目前の敵を槍で貫きながらもジェイドの頭は冷静にこの戦いの結末をはじき出す。
 要塞として名高いこの水上都市は一度敵の侵攻を許してしまえば、今度はその退路を断つような立地こそが自分達に牙をむく背水となった。

 勝利は不可能。
 撤退も極めて困難。
 投降など、ここに至っては無意味でしかない。

 ジェイド・カーティスは軍人である。
 必要とあらば、どれほど不遜な相手にも膝をついて慈悲を請うてみせよう。
 そんなことでへし折れるような安いプライドも軽い意志も持ってはいない。

 だから現状を好転させる余地があるならば、心にもない命乞いをしてみせてもいい。
 それは殊勝さなどではなく、盤面を次に進めるために必要な駒を切るというだけの、至極ロジカルな結論だった。

 だがそのような手を打てる段階は、とうの昔に踏み越えた。
 いや、相手にそんな段階を踏むつもりがそもそも欠片もなかった、というのが正しいだろうか。

 事ここに至っては、悪名高き死霊使いや、玉座を頂く皇帝を生かしておくメリットなど、相手からしてみればひとつもない。
 仮にジェイドが向こうの立場だとしても、一分の迷いもなく殺せと命じるであろう。

 この状況下で、唯一、ほんの一欠片程度でも、助かる可能性がある者がいるとすれば。




「っは、い!」


 肩で息をしながら一心不乱に敵を斬り伏せていたが、
 それでも張り上げたわけでもないジェイドの声に即座に反応して返事をする。
 この子供が戦いの中で怯える余裕すらなくしてから、どのくらい経っただろう。

 ジェイドもも、一介の兵士に後れを取るほど弱くはない。
 しかし戦場において数は力だ。一騎当千の強者とて、万の雑兵には押しつぶされる。
 体力は尽きるし、譜術もそういつまでも連発は出来ない。

 自分達の限界が近いことは、この子供もよくよく理解しているはずだった。

 だからジェイドは残された音素を振り絞るように一度大きな術を放って、視界に映る範囲の敵を軒並み蹴散らすと、
 息つく間もない戦場にねじ込んだその僅かな猶予の中でを見据え、淡々と口を開く。


「投降しなさい」

「……え」

「この国はもう終わりです」


 誰が見ても疑う余地のない事実を突きつけるジェイドの言葉をひとつも聞き漏らすまいとするように、
 はただ真っ直ぐにこちらを見つめていた。


「逃げなさい、と言いたいところですが、見ての通り逃げ場はありません。
 陸はもとより、海へ脱出するルートもとっくに押さえられているでしょう。
 ですから、投降なさい。あなたは重職でもなんでもない、私の雑用係をしていただけの、ただの兵士です。
 運がよければ捕虜として生かされるかもしれません」


 確証など何もない。殺される可能性のほうが遙かに高いだろう。
 だがこのまま戦い続けた先にある結果は、疑う余地のない死だ。

 それと比べればのあまりのビビりように呆れた相手方が哀れみをかけるやもと、万に一つを祈るほうがまだましに違いないと、
 そう思える程度にはジェイドは現状の希望の無さと同時に、この子供の悪運の強さも知っていた。

 真っ直ぐに、真っ直ぐにジェイドを見上げていたが、一度ゆっくりと目を伏せて息を吐く。

 そして次に瞼を持ち上げたときには、その瞳は何かとても温かいものを見るようにジェイドを映していた。


「ジェイドさん」


 次いで何事かを言いかけたそのとき、ガシャガシャと耳障りな鎧の音がまた新たに迫ってくるのを聞いて、
 は小さく苦笑しながら口を閉じる。間が悪い、とでも思っているのだろう。
 本当に、まったく、この子供はやることなすこと、いつだって間が悪いのだ。昔からずっと。


「ジェイドさん。ひとつだけいいですか?」

「何です」


 もはや悠長に言葉を交わす時間はない。
 そんな中では、その行動でもってジェイドに答えを返すことにしたらしい。

 もう誰のものかも分からぬほど血で濡れそぼった上着を脱ぐと、剣を掴んだ己の右手にぐるりと巻く。


「オレは“このあと”、“もう二度と”貴方の顔を見たくないので」


 そして剣と手を固定するようにぎっちりと結ぶと、歯も使いながら更にそれを強く縛り上げて固定する。
 強く、強く。もう二度と、解けなくていいとでもいうように。


「うん。そういう感じで、がんばってもらって、よろしくお願いします」


 間もなく敵の姿が見えるであろう方角へと向けた射るような視線をそらさぬままに、がそう言って口元を緩めた。

 ジェイドは自分でも何を言おうとしたのか分からぬまま開きかけた口を一度閉ざし、ひび割れた眼鏡を押し上げる。
 細い息をひとつ吐いてから、意識していつも通りの声を出した。


「二度と、ねぇ。それが叶うとなると私は悪魔か何かなんですが」

「ジェイドさんならきっと大丈夫ですよ」

「やれやれ……言ってくれる」


 ジェイドの呆れた声を聞きながら、が改めて剣を構える。


「ジェイドさん、大好きです!」

「――知ってます」


 子供は、青年は、は、どこか清々しささえ覗かせた、いつもと何も変わらない間の抜けた顔で笑って、駆けだした。

 その先を見届けることなくジェイドも身を翻し、宮殿の奥へと足を進める。
 かつての荘厳さは見る陰もなく崩れ、壊れ、そこかしこに死体の転がる通路を走り、扉を押し開く。


 そこへ広がる光景を目に焼き付けて、ジェイドはゆっくりと肺に溜まった空気を押し出した。


「“このあと”でぎゃあぎゃあ騒がれるのは面倒ですから、一応努力はしますが」

 血塗られた玉座を囲んで勝利の雄叫びを上げる敵影を見据え、ジェイドはそっと顔に手をやると、
 譜眼の暴走を防ぐためにかけていた眼鏡のつるへと指先を乗せた。
 それを躊躇無く引き剥がし、投げ捨てる。こんなもの、もはや何の意味も無い。

「……少しばかり早く追いついたからって、怒らないで下さいよ?」

 宙を舞って落ちた眼鏡が、血にまみれた床に跳ね返って硬質な音を立てる。
 薄い硝子が砕けるその音は、流れる水のせせらぎにも似ていた。










「喜べ! ジェイドに! 赤ちゃんが出来たぞぉおおおお!!!」


 扉を開け放つ盛大な音とともに鼓膜を振動させた大声に、
 まどろみの中に沈んでいた意識を一本釣りされたジェイド・カーティスは、すっと瞼を押し上げた。

 見慣れた執務室で、椅子に座ったままうたた寝をしていたらしい自分と、
 机を挟んで対面からそんなジェイドを直前まで覗き込んでいたらしいと、
 そんな二人分の視線を一身に受けてなお堂々と扉を開けたポーズのまま仁王立ちするピオニー。
 そんなわけのわからない状況を、ジェイドは寝起きでもまず鈍ることのない頭で冷静に俯瞰する。

 固まる空気の中、まず最初に声を上げたのはじわじわとピオニーの言葉を咀嚼したらしいだった。


「そっ、…………それはおめでとうございます!!! ジェイドさん!!!」

「ええ、ありがとうございます。ところで陛下」

「ん?」


 悪びれもせずにこちらを見返すこの国の皇帝陛下に向かって、にこりと笑う。


「──最っ高に不愉快なのでその手の冗談は控えて頂きたいのですが」

「落ち着けジェイド。分かった。悪かった。俺が説明不足だった。わざとだが」


 ジェイドが投げた槍を顔の前で白羽取りしたピオニーが、うっすらと冷や汗を浮かべながら謝罪する。
 反省はしていなさそうだがまぁいいだろう。

 投げ返された槍を受け取りコンタミネーションで分解し直したところで、
 ピオニーが開け放しだった扉を閉めてから改めてこちらに歩み寄ってくる。


「皇帝に槍投げる懐刀があるかよ」

「いやですねぇ、所有者であっても使い方を間違えれば怪我をするのが武器というものですよ」

「へ? えっ、え? あれ? ……ウソなんですか?」


 二人の会話を聞いて目を白黒させるに、ピオニーがにやりと笑みを返す。


「嘘と言えば嘘だが、本当っちゃ本当だな」

「陛下」

「つまり赤ちゃんが出来たのはかわいいほうのジェイドだ」


 これ以上わざとらしい言い方をしようものなら次はないと言外に圧を込めて呼ぶと、
 本当はもう一息くらいをからかうつもりだったのだろうピオニーは、さすがに引き際と見たか簡潔に事実のみを述べた。
 とはいえジェイドからしてみれば、誤解も事実もどちらも不愉快には変わりないのだが。

 事の次第をようやく理解したらしいが、ぱあっと表情を輝かせる。


「ジェイドさまにですか!? それは……それはおめでとうございます!
 うわあ、すごい、ジェイドさまお母さんになるんですね!」

「ああ。無事に子供が生まれるまでは少しおてんばを控えてもらいたいもんなんだが、
 多分お前のことは蹴りに行きたがるだろうし、どうしたもんかと」

「……オレしばらく姿見せないほうがいいですか?」

「とはいえそれはそれで寂しがるからなぁ、適度に顔は見せてやってくれ。
 いやはやまったく、面倒くさくてかわいいやつだ」


 傍らで交わされる地獄みたいなやりとりを耳の端に、手元の書類をさばき始める。
 ただでさえブウサギどころでなく面倒な案件が山積みなのだ。そこへ来ての“例の件”とくれば、いよいよこんな茶番になど構っている暇はない。
 そう思いとピオニーの会話を意図的に意識から閉め出そうとした瞬間のこと。


「そうだ! ちなみにお父さんはどなたで、」

「すみません止めてくれませんか」

「それがだなぁ、」

「天光満つる処に我は在り、黄泉の門開く処に汝在り……」

「おっと悪いなんか急に思い出せなくなったわ」


 さすがに聞きたくない。欠片も。名前が同じなだけで縁もゆかりもない他(た)ブウサギのこととはいえ。
 心の底から知りたくない情報である。

 両手を上げて降参の意を示したピオニーに、ため息と共に練り上げていた音素を霧散させたジェイドは、
 怯えきったオタオタのごとくぷるぷると震えながらこちらの様子を伺っていたに視線を移す。


〜?」

「はははははいぃっ!!」

「あなたにお願いしていた件、そろそろ時間じゃないですか?」

「すぐ行きます!! もう! 今すぐ!!!」


 は大慌てで作業途中の書類を片付けると、「それでは行ってきます!」と敬礼をひとつ残して駆け出そうとする。
 ……その背中に、ふと夢の景色が重なった。




「ハイ!!」

「行ってらっしゃい」

「……いってきますっ!」


 くしゃりと嬉しそうに笑み崩れたが、もう一度挨拶を返して執務室を飛び出していく。
 そんな子供の背を今度こそ見送ったあと、二人の男が残された執務室には短い沈黙が落ちた。

 ジェイドが何も言わないのを見て取ると、ピオニーは小さく息を吐いてこちらに向き直る。


「お前ら、何か俺に隠してることあるだろ」

「さて。どれのことやら」

「いや隠してること自体を否定しろよ。
 とはいえお前がそうするべきだと判断したなら俺はそれでもいいが、あいつも大丈夫なんだな?」

「ええ。そんなに大したことじゃありません。大事ではありますが。
 少々……いえ、死ぬほど面倒くさい案件が降ってわいただけです。面倒くさいですがどちらかといえば朗報の類ですよ。
 諸々の処理が本当に、本当に面倒くさいですが」

「どんだけ面倒くさいんだよ。まぁ手が必要になったら言え。皇帝パワーでよけりゃ貸してやる」

「それはどうも」


 果たしてピオニーのほうこそそんなことをしている余裕があるのか知らないが、
 まぁブウサギの懐妊報告に走ってくる暇があるならまだまだ平気だろう。
 本当に必要になったときにはせいぜいそのお力を拝借することにしようと決めて、ジェイドもまた自分の仕事に取りかかる。


「しかしお前、さっきはやたらと機嫌悪かったな」


 そうして話が一段落ついて帰るのかと思いきや、
 誰かが連れ戻しにくるまで束の間の自主休憩を取ることにしたらしいピオニーは、我が物顔でソファに腰を下ろしながら言う。

 ジェイドがブウサギ関連の話を嫌がるのはいつものことだが、それにしても一際気が立っていた、と指摘されて目を細める。
 別にああいった会話自体はそれこそ“いつものこと”だ。確かに不愉快な話題には違いないが、それだけでしかない。
 ピオニーに気取られるほど気を乱す要因にはなり得なかった。

 だから先ほど微睡みから醒めたばかりのジェイドの機嫌が悪かったとすれば、それは。


「…………」


 ジェイドは現実主義者である。
 あの旅の中で枝葉が少し変わったとしても、根の部分にやはり変わらないものはある。

 ジェイドは曖昧なものは信じない。だから確証の持てない事実をそのまま口にするつもりはない。
 それはどちらかというと軍人であるジェイド・カーティスではなく、
 研究者としてのジェイド・バルフォアの持つ譲れない習性なのかもしれない。

 そしてジェイドは、いたずらに希望をちらつかせる残酷さを知っている。
 ゆえにあの日から頭の隅に浮かんでいるひとつの可能性を、あの子供にも、誰にも、告げるつもりはなかった。

 確証のないものなどジェイドは信じない。
 だからあんな夢の光景も。


  
『 ND2019 キムラスカ・ランバルディアの陣営はルグニカ平野を北上するだろう。軍は近隣の村を蹂躙し要塞の都市を囲む。
    やがて半月を要してこれを陥落したキムラスカ軍は玉座を最後の皇帝の血で汚し、高々と勝利の雄叫びを上げるだろう 』



 あれが、もしかしたら訪れていた未来の光景だったのかもしれないだなどと。


「────少々、夢見が悪かったもので」


 そんな不愉快な仮定を、ジェイド・カーティスは信じない。


 窓の外から流れてくる穏やかな水の音を聴きながら、ジェイドは静かに笑って夢の残滓を切り捨てた。





アビス19周年おめでとうございます!
周年記念なのに全くおめでたくなさそうな秘預言ネタですが大丈夫、夢オチです。

はビビリつつヘタレつつも最後の最後の最終的に自分の命より優先するのは、なんやかんやでやっぱりジェイドさんだったりします。
そうなるのはほんとのほんとに最後だけど。